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神戸地方裁判所尼崎支部 昭和35年(ワ)197号 判決 1964年1月31日

原告(反訴被告) 国

訴訟代理人 水野裕一 外三名

被告(反訴原告) 多田国次

主文

被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し別紙目録記載の宅地につき所有権移転登記手続をせよ。

被告(反訴原告)の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は本訴反訴を通じ全部被告(反訴原告)の負担とする。

事  実 <省略>

理由

本訴関係

一、本件宅地は、従前は、多田ヨシの所有に属していたものであるところ、その後、ヨシは昭和十七年六月五日隠居して養子である被告が家督相続によりこれが所有権を承継取得し、更に、その後、ヨシは同十七年七月二十四日倉橋辰次郎と婚姻して、倉橋ヨシと改姓し、同二十六年二月十六日に至つて死亡したこと、しかるところ、登記簿上においては、本件宅地の所有名義人は、昭和二十年二月十八日当時はもとより、その後も、依然、多田ヨシのままであつたものであつて、同三十三年三月十日に至り、被告において前叙の日の家督相続を原因として所有権移転登記を経由したのであつたこと並びに、その間、昭和二十年二月十八日当時、兵庫県武庫郡鳴尾村鳴尾字武庫開二十四番宅地百五十三坪二合九勺と表示されていた宅地の一部をなしていた本件宅地は、その後の区画整理に伴う分割及び地番の変更により西官市鳴尾町一丁目二百五十一番宅地百四十三坪三合五勺と表示されるに至つているものであることは当事者間に争いがないところである。

二、しかして、次に、成立に争いがない甲第一号証、同第三、四号証、同第八号証の一、乙第二、三号証、同第五ないし第七号証、その方式及び趣旨により真正な公文書と推定すべき甲第五号証の一ないし三、同第六、七号証、同第八号証の二、同第九、十号証、証人数見惣太郎の証言により直正に成立したものと認め得る甲第二号証の一ないし三に、証人木村辰信、同木田光太郎(第一、二回)、同数見惣太、郎同相口数蔵、同橘寿一の各証言に弁論の全趣旨を総合すると、本件宅地をめぐつて、多田ヨシこと倉橋ヨシ、被告並びに原告等とのあいだに、大要、次のような経緯のあつたことが認められる。すなわち、

(一)  原告、詳しくは、旧海軍省は、終戦直前である昭和二十年二月頃鳴尾飛行場誘導路の敷地に使用するため、本件宅地を含む兵庫県武庫郡鳴尾村地内の土地を買収することになり、その手続を兵庫県知事に委託したのであつた。

(二)  かくして、兵庫県庁関係においては、知事、土木部長が中心となり、殊に、実際には、土木部庶務課員数見が責任者となつて、買収手続を進め、まず、現地の調査、公簿、すなわち、登記簿等の調査、現地の評価、図面の作成並びに所有者毎の調書の作成等の一連の作業を経た後、公簿、すなわち、登記簿等上の調査から判明した所有者等に対し昭和二十年二月十八日午後二時兵庫県武庫郡鳴尾村役場三階会議室に集合して貰いたい旨の通知を発したのであつた。

(三)  かかるしだいであつたが、本件宅地の場合については、右に述べたように、従前の所有者であつた多田ヨシは、昭和十七年六月五日隠居したところから、養子である被告が、家督相続によりこれが所有権を承継取得しており、又、ヨシは従前から、当時の兵庫県武庫郡鳴尾村小曾根字笠屋百九十番地に戸主として本籍を有し、居住もしていた倉橋辰次郎と内縁関係にあつて、その間に、一子まで儲けていたものであり、その後、同十七年七月二十四日に至り、辰次郎と正式に婚姻して、倉橋ヨシと改姓し、辰次郎が同十八年四月二十六日死亡してからも、倉橋家を去ることはなかつたわけであつたけれども、登記簿上においては本件宅地の所有名義人は、同二十年二月十八日当時も、依然、武庫郡鳴尾村小曾根字笠屋百九十番地多田ヨシと表示されたままであつたので、そこで、数見等は、ヨシに対し、多田ヨシ名義をもつて、他の所有者等に対すると同様、前叙のごとき通知を発したのであつた(右事実のうち、ヨシの隠居、被告の家督相続、これに伴う本件宅地の所有権の承継取得、ヨシと辰次郎との正式の婚姻、ヨシの改姓及び登記簿上におけるこれが所有名義人に関する事実は当事者間に争いがない)。

(四)  かかる経緯の後、昭和二十年二月十八日午後二時頃、兵庫県武庫郡鳴尾村役場三階会議室において、当日、集合した多数の所有者等に対し、原告の関係者とした出席しだ兵庫県土木部長、辰己海軍主計中佐並びに数見等から、種々の説明、折衝がなされたのであつたが、その結果、所有者等の一人であつた多田ヨシこと倉橋ヨシも、結局、本件宅地を、鳴尾飛行場誘導路の敷地として原告に売渡すことを承諾し、数見等が、予め、多田ヨシの氏名までも記入して作成してきた土地売渡承諾書(甲第二号証の一)のほか、登記承諾書(同第二号証の三)、委任状(同第二号証の二)等に、持参した多田なる角印を押捺して担当官に交付し、なお、原告側においては、その頃、ヨシに対し、多田ヨシ名義をもつて、これが代金の支払を完了したのであつた。

(五)  かくして、原告、詳しくは、旧海軍省においては、その頃以降、直ちに、所有者等とのあいだに売買契約を取結んだ本件宅地を含む附近の土地の引渡を受け、整地に着手して、鳴尾飛行場誘導路の敷地として使用することによつて占有を開始し、その後、終戦に伴い、旧海軍省が廃止された結果、同二十年十二月一日以降は、大蔵省において雑種財産として本件宅地を所管するに至り、しかして、実際には、当初、大阪財務局兵庫管財支所が、更に、その後の機構改革に応じ、若干の変遷があつたけれども、最終的には、近畿財務局神戸財務部がその衝にあたつて、関係法令にもとづく看守の配置、職員の派遣、公共団体からの事情の聴取、更には、公簿、すなわち、登記簿等、図面の調査等の手段を講じて管理することによつてこれが占有をつづけ、なお、終戦後、本件宅地上において、附近のもの等が、蔬菜類の裁培を行い、担当官が、極端に食糧が不足していた当時の社会情勢などを考慮して、その所為を黙認していたことはあつたけれども、この事柄によつて、原告は、詳しくは、大蔵省の管理が中断せられたことはなく、最後に、同三十三年頃からは、原告はこれを西宮市に道路用地として使用せしめて現在に至つているものである(右事実のうち、原告が本件宅地を、当初、旧海軍省において鳴尾飛行場誘導路の敷地として使用することによつて占有を開始し、その後、大蔵省において管理するなどして在現に至るまで占有をつづけていること及び終戦後、本件宅地上において、附近のもの等が蔬菜類の裁培を行つていたことのあつたことは当事者間に争いがない)。

(六)  しかるところ、その間、鳴尾飛行場については、昭和二十年八月中日本国においてポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、占領軍が同二十年九月二十七日近畿地方に進駐した結果、同飛行場の大部分が接収されて、通称甲子園キヤンプとして使用され、同二十年十一月頃以降これらの軍隊の定駐をみるに至り、その後、同二十七年四月二十八日講和条約が発効した後は、占領軍にかわつて駐留軍が、同三十三年三月二十四日までこれを使用していたわけであつたけれども、同飛行場のうち占領軍ないし駐留軍の定駐、使用していた区域は、金網製周壁でもつて囲繞され、厳重に、他の区域と区分を施してあつたものであるところ、同飛行場の附属設備に属すべき誘導路の一部である本件宅地は、前叙の周壁から約六百米の距つた場所に所在していて、これらの軍隊の接収、或は、供用の直接の対象となつて使用されていたことはなかつたものであり、又、同飛行場関係の接収、或は、供用に関する占領軍の調達要求書、或は、駐留軍に対する財産受渡書、更には、その他の関係記録中にも、これが接収、或は、提供についての記録はなく、したがつて、本件地については、これらの軍隊の接収、或は、供用による借料、補償金等の支払の事実はなかつたのであつた。

(七)  しかして、原告、詳しくは、大蔵省においては、昭和三十二年五月頃、本件宅地についての所有権移転登記が、未だ、経由していなかつたがために、多田ヨシの住所を調査したところ、初めて、ヨシの隠居による養子である被告の、前叙の日の家督相続を原因とするこれが所有権の承継取得、ヨシの倉橋辰次郎との正式の婚姻による倉橋ヨシとの改姓などの経緯のほか、ヨシが同二十六年六月十六日徳島県名東郡国府町府中六百番番地において、既に、死亡し、更に、被告が徳島市内に居住していることなどが判明するに至つたので、そこで、原告から被告に、屡々、本件宅地についての所有権移転登記承諾書等の提出を求めたのであつたが、これに対し被告から、同三十三年六月六日附書面をもつて、被告自身は、当時、応召不在中であり、その頃、原告からヨシに対しいかなる申出があつたか、又、ヨシがいかに応答したか、全然、関知していないのであるからして、これが真実の所有権保持者であつた被告としては、もとより、原告の要求に応ずることができない旨回答し、なお、その後、右に述べたように、被告において同三十三年三月十日、前叙の日の家督相続を原因として所有権移転登記を経由したという経緯のほか、原告が同三十五年二月下旬被告を相手どり神戸地方裁判所尼崎支部に、本件宅地につき譲渡、抵当権の設定、その他一切の処分を禁ずる旨の仮処分申請をし、同三十五年二月二十六日その旨の決定を受けるなどのことがあつて本訴の提起をみるに至つたのであつた。

このように認めることができる。(乙第四号証の一、二及び被告本人訊問の結果のほか、本件にあらわれたその他のすべての証拠によつても、右の認定を覆えすには足りないと思料されるところである。)

三、そこで、進んで、前叙のような基礎的事実関係のもとにおいて、原告の本訴請求が許容せらるべきものであるか否につき、法律上の観点からの考察も加えて、以下、検討する。

(一)  原告、詳しくは、旧海軍省が、昭和二十年二月頃鳴尾飛行場誘導路の敷地に使用する目的でもつて、本件宅地を買収するにあたり、登記簿上においては、これが所有名義人は、多田ヨシとなつていたので、責任者として衝にあたつていた数見等は、その表示を信用して買収手続を進めたのであつたところ、実際には、これより先、ヨシが同十七年六月五日隠居して、養子である被告が家督相続により本件宅地の所有権を承継取得していたわけであるが、元来、改正前の民法において認められていた生前相続の一である隠居のごとき場合には、被相続人とのあいだに、相続により不動産の所有権の移転が行われたとしても、その旨の所有権移転登記が経由されることがないからには、これが所有権移転をもつて物権変動のいわゆる第三者に対抗することができない結果、第三者に対する関係においては、被相続人が、依然として、その不動産の所有者であつて、いわゆる関係的所有権を有するものであると解せられることが一般であるので、したがつて、原告が、当時、本件宅地はヨシの所有に属しているものとして、買収手続進めたことについては、格別に、瑕疵はなかつたものと考えられるところである。

(二)  もつとも、ヨシに昭和十七年七月二十四日倉橋辰次郎と正式の婚姻をした結果、既に倉橋ヨシち改姓するに至つていたわけであつたが、或るものが婚姻によつて夫の民を称することになつて改姓したとしても、かかる事柄により、そのものの法人格が、死亡の場合と同様に、世から消減するものではなく、そのものがその意思にもとづき、従来の氏名を使用して法律行為をすることも充分あり得ることは原告の云うとおりであると解せられるのであるところ、殊に、本件宅地の場合に関しては、数見等から多田ヨシ名義をもつて通知を受けたヨシが、その指定の日、指定の場所に出頭して、数見等が作成した多田ヨシ名義の前叙の売渡承諾書、登記承諾書、委任状等に、持参した多田なる角印を押捺して担当官に交付したものと認められるのであるからして、したがつて、その間、数見等がヨシの身分上の地位を取調べなかつたという瑕疵があつたとしても、これを強く咎むべきものではないと考えられるところである。

(三)  しかして、右に、順次、説明してきたところを、総合して、判断すると、原告が登記簿上の所有名義人である多田ヨシこと倉橋ヨシとのあいだに取結んだ売買契約が有効であると信じて、本件宅地を、昭和二十年二月十八日頃鳴尾飛行場誘導路の敷地として使用することによつて占有を開始するにあたり、他に特別の事情の認められない本件の場合、その始めにおいて、過失はなかつたことに帰するものであり、したがつて、原告がこれが所有権を時効により取得する期間は、民法第百六十二条第一項ではなく、第二項に定めるところにしたがい、その他の要件について、特、に反証のないかぎりは、十年間をもつて足りることになると思料されるところである。

(四)  次に、鳴尾飛行場については、当初、占領軍により接収され、これらの軍隊、更には、駐留軍が定駐、使用していた区域は、金網製周壁でもつて囲繞され、厳重に、他の区域と区分を施してあつたものであり、前叙の周壁から約六百米の距つた場所に所在している本件宅地は占領軍ないし駐留軍の通称甲子園キヤンプ設営の直接の対象となつて、現実に、使用されていたことはなく、又、同飛行場関係の接収、或は、供用についての占領軍の調達要求書、或は、駐留軍に対する財産受渡書、更には、その他の関係記録の記載模様、かつ亦、これらの軍隊の接収、或は、供用による借料、補償金等の支払の事実が認められないことなどからするときは、占領軍ないし駐留軍の同飛行場の大部分の接収の法律的効果が、これらの軍隊の現実の使用、状況はともかくとして、少くとも、観念上は、本件宅地にまでおよぶべき関係にあつたと判断することも困難なところであるので、したがつて、被告の、占領軍ないし駐留軍の定駐に伴う、原告の本件宅地の占有中断の主張は、前提とするところにおいて、既に、同調し得ないものがあり、原告、被告が相互に詳細にわたり主張する事実上並びに法律上のその他の諸点の検討をまつまでもなく、理由がないことに帰すると考えられるところである。

(五)  かかるしだいであるが、更に、加えて、原告が本件宅地を当初、旧海軍省において鳴尾飛行場誘導路の敷地として使用することによつて占有を開始し、その後、大蔵省において管理して占有をつづけている間、民法第百六十二条第二項に定めるその他の、所有者として占有する意思、占有の平穏、かつ、公然であること、その占有の始め善意であること等の要件を具備していなかつたことについて、特に、反証がなく、かつ亦、終戦後、これが地上において、附近のもの等が蔬菜類の裁培を行つていたことがあつたにしても、この事柄は、畢竟、担当官が、極端に、食料が不足していた当時の社会情勢などを考慮して、その所為を黙認していたにすぎなかつたものであつて、取得時効の要件たる原告の自主占領を中断するに足りるべき事実とは認められないことなどをも、彼此、併合で推論していくときは、原告としては、その後、十年間を経過したことの結果、昭和三十年二月十八日頃本件宅地の所有権を時効により取得したものであつて、元来、時効による所有権の取得は、原始取得の範疇に属するものであるからして、通常の法律行為におけると同意義の当事者は存在していないわけではあるが、時効により不動産の占有者がその所有権を取得するのは、その半面として、その時期において目的物である不動産の所有者であつたものの所有権の消減を招来するものであるからして、時効完成当時の所有者は、その取得者に対する関係においては、恰も、承継取得における当事者たる地位にあるものとみなすべきものであること、したがつて、時効による不動産の所有権の取得につき、これをいわゆる第三者に対抗するがためには、登記を必要とするが、時効完成当時、所有者であつたものに対しては、完全に所有権を取得するものであつて、敢えて、登記を必要とするものではないこと、しかして、その所有権の取得登記は、移転登記の方法によるべきが相当であることなどと解せられることが一般であることに照し合せると、原告としては、ヨシの前叙の日の隠居に伴い、家督相続により本件宅地の所有権を承継取得し、同三十三年三月十日に至つてその旨の所有権移転登記を経由している被告に対し、改めて、所有権移転登記の経由を求め得る立場にあると考えられるところである。

(六)  以上、これを要するに、原告の被告に対し、右に述べたところの時効による所有権取得にもとづき、本件宅地につき所有権移転登記手続をすべきことを求める本訴請求は、正当としてこれを認容すべきものであるという結論に到達すると思料されるところである。

反訴関係

原告が、遅くとも、昭和三十三年一月一日以降から本件宅地を占有しつづけてきていることは当事者間に争いがないところであるが、既に、本訴関係の部において、順次、説明したところよりすれば、原告としては、同二十年二月十八日頃以降、当初、旧海軍省において鳴尾飛行場誘導路の敷地として使用し、その後、大蔵省において管理して、格別に、民法第百六十二条第二項に定める要件に欠くることなくして、占有をつづけてきていた結果、同三十年二月十八日頃時効によりこれが所有権を取得し、却つて、被告に対し、改めて、本件宅地につき所有権移転登記の経由を求め得る立場にあることが明かであるので、したがつて、被告の原告に対する反訴請求は、前提とするところにおいて、俄かに、同調し得ないものがあり、被告が詳細にわたり主張する事実上並びに法律上のその他の諸点の検討をまつまでもなく、失当としてこれを棄却すべきものであるという結論に到達すると思料されるところである。

よつて、本訴、反訴を通ずる訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八十九条、第九十五条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 中島誠二)

目録<省略>

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